生き方死に方を考える

どうも。お久しま◯子です。

今日は子どもの日。
ゴールデンな週の真っ只中ですが、いかがお過ごしですか??

 

私は今、病院にいます。

「父が入院して、もう長くは生きられないから、顔を見に来て」

と呼ばれてから1ヶ月以上。
はい、まだ生きてます。

病院の方々曰く、こんな患者は初めてだとな。

 

この1ヶ月ちょいの間、昼夜問わず「危篤」と連絡あり呼ばれること数回。
滋賀に住んでる兄も、もう何回も来てる。
この前は、北海道旅行に行く途中、札幌空港に着いて30分で呼び出しかかり群馬まで来た。

で、まだ生きてます。

なんなんだ、この生命力。

 

私が行くと、ヘヘッと照れ笑いをする。

昔から変わらない父の癖だ。

 

10数年前に脳梗塞を患い、多く麻痺が残り全く話が出来ず字も書けず、意思疎通が困難なんですが。

なんだかワーワー言うとります。

「トイレ行きたい」や「帰りたい」や「動きたい」

なんだと思うけど、なんも出来ません。
どうすりゃいいの?と数時間ごときで根をあげてる。

これをずっと自宅介護してた母スゲー。

そういえば、実家で飼ってた犬が動けなくなり、1年ほど要介護だったんだけど。
私はなんもしなかった。

というか、そんな状態の犬を見ていられなくなって、避けてた。
朝学校に行く時も、横目でチラリと見る程度。

そういえば、辛い事態になるとすぐ逃げるな私。
ホント向き合わない自分に気づいた訳です。

こんなに自由にならない身体でずっと寝たきりで。

死んでしまった方が楽なんでは?
出来れば安らかに眠って欲しい。

なんて思ったりしてる。ヒドイけど。

死にたいけど死ねないのか。
まだやり残した事があって死ねないのか。
生きたいと思っているのか。

分からないけど。

でもこんな状態でも、生きていて欲しいと思う人もいるわけで。

やはり人は、存在してるだけで価値があるのかもしれない。
存在がなくなっても、誰かの中に生き続けて価値があるのかもしれない。

 

父を見ながら思うのは、やりたい事がやれない、思うように動けないのは想像を絶する
ツラさなんだろう。

身体が自由で当たり前のように生きてることが、当たり前じゃなく。
なんでも出来るじゃん!って気になる。

自分の人生、誰かに干渉されることなく、思い通りに生きればいい。

生き方も死に方も、自分で決めていい。

 

身近に自ら命を絶った人がいるのだけど。
なんでそんな事するんだ、とか、残された人がかわいそう、とか。

いろんな言葉を聞いたけど。

 

私はその時に
あぁ、この人は責任をもって自分の人生を終わりにしたんだな。

って思った。
生きるのを選択するのも、死ぬのを選択するのも、自由であっていいと思った。

確かに、残された人が悲しむ。

それは、
何かしてあげられる事があったんじゃないか。
助けてあげられたんじゃないか。

という、罪悪感や後悔なんだと思う。

なんでも、やり切った感がないと、ベタッとした想いがこびり付いてしまう。

 

私は後悔しないように、今まで言ったことがない言葉を言ってみた。

 

「お父さん大好きだよ。もう心配しないで」

 

いつもの事だが、気持ちを伝えようとすると、先に涙が出てくる。

んで、喉がつまって声が出ない。

この癖もなかなかなおらないが、だんだん出来るようになってきたのかもしれない。

 

素直な感情表現大事。

 

いつも一瞬一瞬に向き合い想いを込めて、やれることはやりきった!
という生き方をしよう。

「我が生涯に一片の悔いなし!」

 

ラオウのような死に方をしようと今誓う。

ページトップへ上へ